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ウマ・うま・馬の百態 その5 [駒・馬の話]

シエーナのパーリオ(裸馬競馬)
田口計介

 イタリアの中部、トスカーナ州シエーナ県シエーナは、イタリアが誇る13~14世紀に都市建設を行った中世都市(世界遺産)である。
 そのシエーナのカンポ広場は、最古の開催が13世紀とされる裸馬競馬・パーリオの会場である。
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 パーリオとは競馬の優勝旗のことであり、毎年競馬はいずれも聖母マリアに関わる7月2日と8月16日の2回行われる。
 鞍や鐙はな鳴く、10コントラーダ(地区)・10頭立の手綱のみで石畳の1周300mのコースを3周する。
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 ただそれだけの競馬であるが、イタリアを代表する祭りである。
 私と妻は、2007年この1分弱の競馬を見るためにシエーナに出掛けている。


ウマ・うま・馬の百態 その4 [駒・馬の話]

15~19世紀の西洋絵画のペガサス

田口計介

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ウマ・うま・馬の百態 その3 [駒・馬の話]

その3 有翼の馬ペガサス
田口計介

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1 四頭立て二輪戦車に乗るヘリオス(ギリシャ神話の太陽神)

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2 有翼の馬が曳く馬車 bc7c

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3 ブロンズのペガソス bc575年頃

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4 疾走する2頭の有翼馬 bc520年頃

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5 ペガサス頚飾 bc5c

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6 ペガサスに乗るペレロフォン(ギリシャ神話の英雄)bc5c

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7 下界へ行くぺルセフォネ(ギリシャ神話の女神)

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8 スキタイの飾り板・金 bc4c

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9 金銀象嵌銅車飾り 前漢

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10 龍首水瓶の天馬 7c、小生レプリカ所有

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11 ペルシャ絨毯 7c

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12 唐・順陵の天馬石像 8c

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13 円鏡の天馬

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14 韓国新羅・白樺樹皮製天馬

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15 鳥獣花背円鏡

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16 ルネサンスのペガサス 16c

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17 ウィーンの街角








ウマ・うま・馬の百態 その2 [駒・馬の話]

その2 馬であって、ウマではない
田口計介

ケンタウロス:半人半獣(馬)
ポセイドン(ギリシャ神話):青銅のひずめと黄金のたてがみ、海の主神
ネプチューン(ローマ神話):ポセイドンと同じ
トリトン:ネプチューンの息子

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1 バビロニアのケンタウロス bc2000年

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2 ギリシャのケンタウロス bc443年

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3 ギリシャの英雄・アキレスの教育

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4 ローマの郊外オスティア遺跡の浴場の床のネプチューン

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5 同上、小生が5月16日現地を訪問しての写真

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6 トリトン

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7 ミャンマーの博物館の柵のネプチューン

新シリーズ「ウマ・うま・馬の百態」 [駒・馬の話]

その1 アレクサンドロス大王(bc356~323)と愛馬ブケファロス
                        田口計介

 ウマの家畜化は約6000年前。そして、ウマとヒトは永遠の友だち。
というわけで駒ヶ岳ファンにもおつきあいいただく、新シリーズ。
まずはアレクサンドロス大王(bc356~323)と愛馬ブケファロス関連の画像を紹介。
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1 アレクサンドロスの出身地マケドニアの騎兵・レリーフ

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2 狩りをするアレクサンドロス・ローマ時代の金貨

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3 ブケファロスに乗るアレクサンドロス・ローマ時代ブロンズ

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4 イッソスの戦い(bc333)部分・モザイク

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5 イッソスの戦い・アレクサンドロスとペルシャ王ダレイオス3世・モザイク

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6 ローマ時代・ブロンズ

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7 ローマ時代小像・ブロンズ

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8 ガウガメラの戦い(bc331)・象牙レリーフ

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9 将官姿のアレクサンドロス

馬はいつ渡来したのか [駒・馬の話]

海を渡って馬が来た
                        田口計介
 我が国の馬は朝鮮半島から海を渡って来たことを疑う人はいない。それなら、いつ頃、どんな方法でやって来たのであろうか。古い文献では、縄文時代や弥生時代に日本列島に馬がいたとの記述があるが、間違いである。発掘技術の進歩によって、馬とされる従来の年代の特定はことごとく覆されている。
 1,8万年前に日本列島がユーラシア大陸から分離した後、縄文人(前14,000年頃~前4世紀)は海を介して大陸との交流を始めていた。多分、その手段は筏か丸木船であろう。
 大陸との交流の明確な最初の資料は、『後漢書』(范曄・はんよう編、成立5世紀)に記述されている、それは後漢の光武帝が建武中元2(57)年、倭の使者に下した「漢委奴国王印」である。107年にも倭国王が漢(安帝)に使者を出している。次は、邪馬台国の女王卑弥呼が239年、243年に、壱与が247年に魏へ使者を派遣した。これらの使者がどんな船に乗っていたかの資料は一切ない。
 さて、馬が日本列島に来たことの確認は馬の遺体と馬具による。馬の遺体では、最も古いのは甲府市塩部遺跡で下臼歯24点、切歯点などが出土していて、4世紀第三4半期と報告されている。馬具ではいずれも5世紀始めとされる、熊本県合志市の上生(うぶ)上ノ原3号石棺墓の鑣(くつわ)、同じく八反田2号墳の鑣、兵庫県加古川市の行者塚古墳からの鑣と鏡板である。八反田2号墳からは馬歯も出土している。
 多くの研究者は馬の渡来を5世紀のはじめとしているが、渡来地からの移動(甲府市、合志市、加古川市へ)時間を考慮すると4世紀の半ば以前の渡来とするのが妥当であろう。
 
 次は、海を渡る船である。前述したようにどんな船であったかの資料はないが、各地で出土した舟型埴輪などを参考に、船首・船尾や側板などの部材を組み合わせた準構造船を復元・製作して、航海を行っている。
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 この航海3例は古代船としてのトレースは成功したが、漕ぎ手以外に乗員を載せていなくて朝鮮との往復に使えるとは思われない。実際は、漕ぎ手以外に使者とその従者や中国王朝への貢ぎ物、食料、水を満載できる船であったはずだ。
 筏船で航海を行った報告がある。
・1972年10月 長崎大学、対馬―→唐津、対馬の藻刈り船を改造、漕ぎ手4人と馬1頭、1ノット
・1997年6月 中国浙江大学と韓国東国大学外、中国舟山島(15日)―→韓国仁川(7月8日)、長さ10m、幅5m布製の帆付、漕ぎ手10人
・2016年7月 国立科学博物館・3万年前の人類到来の再現、沖縄与那国島(17日)―→西表島(18日)75km、長さ6,4m、幅1,3m、台湾産の麻竹、「どうなん」号、「シラス」号漕ぎ手各7人乗り、速度2km/hr

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 以上のような限られたデータから推論すると、当初は朝鮮半島からの馬の渡海方法は漕ぎ手5人の2セット、馬2~3頭、水と食料を載せられる竹製の筏であろう。
 諫早直人氏によると「『日本書紀』の記述や石上神宮に伝わる七支刀の銘文から、百済は4世紀後葉の近肖王代(在位346~375年)に、加那諸国の一つである卓淳国を介して倭との通行を開始した。そのような国際環境の変化を背景として、馬匹の輸入開始したのであろう」としている。ほぼ200年後の554年には倭は百済救援のために朝鮮半島に出兵したが、その戦力は兵士1,000人、馬100頭であった。100頭の馬が海を渡ったのである。

汗血馬(追加) [駒・馬の話]

                        田口計介
 汗血馬について以前報告したが、その後私の資料に加藤九祚先生の著『シルクロード文明の旅』があり、その記述に岩絵の汗血馬があった。是非この岩絵(加藤先生撮影)の馬も紹介します。

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アラワンの「汗血馬」の岩面画。フェルガナ盆地(大宛)の東側にあり、考古学者ベルンシュタムは『史記』の汗血馬をあらわすものと考えた。これは岩面画を3週間かかってコピーしたもの。実物の大きさは、雄の場合、耳の間から尾のつけ根まで113センチ、脚先から背中まで93センチ。――加藤九祚『シルクロード文明の旅』

パジリク古墳群の「乗馬する男」 [駒・馬の話]

パジリク古墳群の「乗馬する男」
                        田口計介
 1930年モスクワで、パジリク古墳の第一次発掘(1927年、隊長S・I・ルデンコ)の出土品を見たとき梅原末治(京都大学名誉教授、1893~1983)は「一見古代の遺品とするに躊躇せしめる程であった」と述べている。考古学の泰斗・梅原博士が第二次(隊長同じくルデンコ、1947~49年)の発掘品「乗馬する男」を見たならば、どんなコメントを残したであろうか。

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 パジリク古墳群はロシア連邦、南シベリアのアルタイ共和国ウラガン郡、アルタイ山脈の西側の山地のステップ性盆地(標高1600m)にある。この古墳群の埋葬者はスキタイ・サカ族の有力者であった。この地方は永久凍土滞ではないが、古墳を築造した時期、紀元前3世紀前半は一時的に小気候的条件(ミクロクリマート)で、凍結した古墳群の遺品を保護した。また、こんな辺地の古墳にもかかわらず、第2号墳を除くすべての墳墓(大型4基、小型9基)が盗掘されていた。幸いなことに彼らは金、銀製品などを盗んだが多くの貴重な陪葬馬等の遺品が残された。
 馬は来世に送られる埋葬者の陪葬であり、闘斧で頭蓋を打たれて殺されていた。これらの馬は背の低い普通の馬と並んで、パルティアやバクトリアの優秀な軍馬に劣らない良種の温血の馬もいた。陪葬馬は兵卒の古墳では2~3頭、貴族の墳墓では最高16頭であった。これらの馬はすべて去勢馬であり、牝はいない。馬の出土の意義は、装飾品を伴う鞍、馬勒などから当時の生活状況を知ることができる。

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「乗馬する男」

 超目玉の圧巻は同じく第5号墳の槨室壁の掛け毛氈(フエルト)に織り込まれた「乗馬する男」である。この毛氈はラクダの毛と羊毛の組合せであり、1平方cmで23本×23本という丈夫な織物であった。世界の絨毯業界では、この絨毯を世界最古だとしている。
 また、毛氈の「乗馬する男」、一見中世、西洋の武具を脱いだ紳士にも見てとれる。だが、日本では縄文時代晩期、中国では秦、インドではアショーカ王のころの作品である。

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第5号墳出土の馬車

 第5号墳の馬車は轂(こしき、70cm)、34本の輻(や、1.5m)を持つ2頭立ての四輪車である。
 パジリク古墳群などアルタイ、シベリアからの出土品は、すべてサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に収納されている。嬉しいことに、美術館の展示ヤードの考古部門にはパジリク室があり、ここで紹介した出土品をすべて見ることができる。

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加藤九祚先生

 わが国でパジリク古墳を調べると、その資料の少なさに驚く。その少ない資料のほとんどは加藤九祚先生(1922~2016)の訳書に辿りつく。加藤先生は国立民族学博物館の名誉教授であり、シルクロード研究の国際的大家である。本小文もパジリク古墳の第1次、第2次発掘隊長のルレンコ(1885年生まれ)の論文「パジリク古墳の秘宝」を加藤先生が訳されたものを下敷きにしている。蛇足ながら、加藤先生は小生の飲酒、特にウオッカの師であった。

汗血馬 [駒・馬の話]

汗血馬
                               田口計介
 
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 汗血馬という名前の馬をご承知の方は、超シルクロード通である。また、ウマの博識である。
 汗血馬が最初に登場するのは、中国の最初の正史である『史記』である。『史記』は司馬遷(bc145/135~87/86)が、黄帝から前漢の武帝までのことを紀伝体で記述した史書であり、紀元前91年頃に完成した。
 その「大宛列伝」に「大宛在匈奴西南。在漢正西。去漢可萬里。其俗土著、耕田、田稲・麦。有葡萄酒。多善馬、馬汗血。其先天馬子也。」とある。この意は「大宛は稲、麦、葡萄を作る農業国だが、天馬と称される馬の子孫で血の汗を流す優秀な馬が多数いる」である。大宛とは現ウズベキスタン東部、キリギスの西部地方一帯のフェルガナである。
 漢の武帝(bc140~86)は大月氏に使いした張騫の報告により汗血馬を知り、大宛に汗血馬の譲渡を求めた。最初は通商で、2度目は弐師将軍の李広利が武力で、いずれも失敗した。3度目は再度李広利が6万の兵力で大宛を攻め、弐師城にいた駿馬(汗血馬)数十頭、中等以下の牡牝三千余頭を獲得した。
 さて、汗血馬とはどんなウマなのか。また『史記』に書かれた弐師城、郁成城、『漢書』(後漢の班超の撰で、82年頃成立)にあらわれる貴山城とはどこであるのかなどが、洋の東西の大学者の間で議論され続けてきている。
 汗血馬の血の汗については、フランスの中央アジア研究者のリュセット・ブルノが「馬の背中のあたりの皮膚の下に寄生し、2時間くらいの間に破裂して出血する小さな腫物を作ってしまう寄生虫が原因」と報告(『絹文化の起源をさぐる』、原著『History of the Formen Han dynasty』1938)している。
 フエルガナ一帯の汗血馬は、ウマの現世種の祖2種のタルパン(20世紀初頭に絶滅)のうちの高原系で毛が短くて軽く早いタイプに属すとされ、中央アジアから中近東に拡散してアラブ馬となり、さらに進化させられたのがサラブレットである。
 汗血馬を想起させる馬は中国甘粛省武威雷台出土の「飛燕を踏む銅奔馬」であり、トルクメニスタン原産の國章にのる愛称黄金の馬・アハルテケ(体高144~163cm)が汗血馬に最も近いとされている。
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 弐師城、郁成城、貴山城の位置であるが、「大宛の属邑大小70余城」、「漢と大宛の戦闘四十余日、大宛の勇将が漢に捕えられ、大宛の兵は中城に入る」、「漢の上官桀は、郁成城を攻め落とし、郁成王は逃れて康居に至る」(『史記』)、「大宛国は、王が貴山城に治し」(『漢書』)などの記述がある。一般に弐師城と貴山城は同一と理解されているが、弐師城では大宛王母寡(もか)は漢に降伏するために部下の貴族により首を切られ、次の漢が据えた王昩蔡(まつさい)も同じく殺されている、貴山城主は母寡の弟の蝉封(ぜんふう)であり、どうも二つの城は時間を異にしていて同じではない。貴族との対立で、蝉封が居城を属邑70余城の一つに、弐師城から貴山城に移したと思われる。
 各研究者の三つの城の比定地は
 弐師城 マルギラン(藤田豊八、長澤和俊)
     コーカンド(リュセット・ブルノ)
     玄奘が訪ねた窣堵利瑟那(ストリシナ)=Uratube(白鳥庫吉)
 育成城 オシュまたはアクシカト(長澤和俊)
 貴山城 ホージェント(桑原隲蔵)
     カーサーン(白鳥庫吉、藤田豊八)
などである。
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