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カヤの平湿原 [日々散策]

伊達樹里

7月12、13日グリーンサークルの自然観察会に参加しました。
1日目はカヤの平北ドブ湿原、2日目は南ドブ湿原でした。
カヤの平のブナはまっすぐな幹でした。
梅雨明け前でしたが、行動中は雨も落ちず、ラッキーでした。

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講師の先生の説明を聞いています

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コケイラン

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マイヅルソウ

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ヒオウギアヤメ

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タテヤマリンドウ(中央)とワタスゲ

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ハクサンチドリ

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ニッコウキスゲ

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ギョウジャニンニクの花

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南ドブ湿原全景

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ズダヤクシュ

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サンカヨウ

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オクヤマコウモリ


駒のつく神社を訪ねる(8)~駒木野神社 [日々散策]

北村健治

 青梅市駒木町2丁目452番地(標高225m)に鎮座するこの神社は、創建年代は不詳ながら、稲荷熊野社と称していたとの伝えもあり、村社に列格したとのことである。
 祭神は倉稲魂命。本殿は1687(貞喬4)年11月造営、1889(明治22)年に字仙戸に鎮座されていたが、吉野街道の改修に伴い、現在地に遷し、稲荷神社と改め、後に駒木野神社と改称した。1916(大正5)年調布村は山林一町九反六畝十五歩を寄進して崇敬の意を表した。祭礼は4月3日であった。〔以上は、東京都神社名鑑などを資料とした青梅市史による〕
 新編武蔵風土記には、「年貢地、小名中嶋にあり。是も小社にして上屋を立つ、以上の2社は村の鎮守なり、例祭は6月15日、9月19日の両日に行へり、百姓の持なり」とある。
 現在の祭礼は9月15日、境内面積は211坪(696㎡)。

駒木野神社アルバム(2017年7月4日)

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門前より、一の鳥居(神明鳥居)と山車庫

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二の鳥居より、檜・杉の木立に拝殿を望む

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125の石段を上ると左右の狐(石)像が迎える

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後を振り向くと二の鳥居・一の鳥居が見える

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拝殿の奥に神明造りの本殿

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拝殿の奥に本殿の内部を拝む

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拝殿天井に大鈴

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境内から青梅市駒木町一帯を望む

 駒木野の由来は、昔村民が絹をおおって馬をとらえ、鎌倉将軍家へ献上したところ、それが世に聞こえる駿馬であったことから、村名を駒絹とし、のち駒木野としたという。村の近くに馬牽(引)沢の地があることから、馬に基づく地名であることは間違いなかろう〔新編武蔵による〕。
 駒木野は中世戦国期にすでに見える地名である。1889(明治22)年から1968(昭和43)年までの大字名であり、はじめ調布村、1951(昭和26)年からは青梅市の大字名となる。
 1968(昭和43)現行の青梅市駒木町1・2・3丁目となった。〔以上は、「角川日本地名大辞典⑬東京都」による〕

 さて、この神社へは、JR青梅駅(標高198m)から直線にすると南南西へ1.4㎞であるが、多摩川をどこで渡るかでかなり距離が替わってくる。歩道橋である鮎見橋(標高150m)と柳淵橋(標高153m)いずれかを渡れば、30~40分で十分歩ける。下流の調布橋(標高170m)か上流の万年橋(標高170m)を廻っても3~4時間くらいのハイキングコースとしても歩くこともできる。青梅市には多摩川にかかる橋もたくさんあるので、橋を巡って楽しむこともできる。

参考資料:
『青梅市史』平成7 (1995)年、 青梅市。
『角川日本地名大辞典13東京都』昭和53(1978)年10月27日、角川書店。





「山へ!to the mountains」 展 [日々散策]

田口計介

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7月21日、「山へ!to the mountains」 展(世田谷文学館)へ出かけた。
相変わらず、この種の展覧会は深田久弥が主役。
彼が選んだ百名山を目指した、達成した方々には恐縮だがいささか鼻につく。
企画者の貧困か。

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一流の写真家が撮った、モノクロの山の写真が良い。
 白川義員 八甲田(1956年)、燕岳(1969年)の2点
 田淵行男 朝の奥穂高(1928年)、裏剣(1954年)など12点
 白旗史朗 冬山の午後(11962年)など5点

昨年死去した田部井淳子さんのコーナーもある。
彼女の生年が私と同じく1939年だったとは、初めて知った。
何一つ彼女に勝るものはないが、「生」だけは勝ったようだ。

次に「ボストンの至宝」展(東京都美術館)を覗いた。
私の大好きなクロード・モネの「水連」が1点ある。
「幻の巨大涅槃図、奇跡の里帰り」と宣伝している英一蝶の「涅槃図」が良い。
宣伝の通りである、私は東南アジアや中国で沢山の「釈迦の涅槃」の塑像、
彫像や各種の絵画を見ているが、日本にもこんなに誇れる作品があったとは。
明治の初期のころ、とにかく現金が欲しいとの状況でどこかの寺院が売却したのであろう。
悔やまれることだ。   
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徳和渓谷の滝巡り [日々散策]

谷 和代

7月19日、涼を求めて徳和渓谷に行ってきました。
徳和渓谷は乾徳山登山口の先にあります。

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案内図

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夢窓の滝

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荒神の滝

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愛染の滝

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乾門の滝

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白虎の滝

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長尾の滝

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竜神の滝

どれも、余り大きな滝ではありませんが、森林浴と涼しさを堪能しました。

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ヤマユリ

駒のつく神社を訪ねる(7)~浅草寺・駒形堂 [日々散策]

北村健治

 台東区に駒形、墨田区に東駒形の町名があり、境を流れる隅田川には昔の船着場、渡船場「駒形の渡し」に代わって隅田川十三橋の一つ「駒形橋」〔1929(昭和4年)架創:長さ146.27m、幅25.2mの鋼橋で戦後に改修された〕が架かっている。

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駒形橋の由来記(駒形堂の前にある)

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駒形橋西詰北側(「こまがたはし」とある)

 この橋の西詰北側〔雷門二丁目駒形公園内〕に堤防を背にして西向きに立派な「駒形堂」が建てられている。

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浅草寺駒形堂

 西詰南側の歩道脇には江戸期の駒形界隈の情景を描いたレリーフや由来記がある。

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駒形橋西詰南側

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駒形堂の由来記

 駒形(こまがた):寛文(1640年代)江戸図には「こまがた丁」と記されていること、馬頭観世音像を納めた駒形堂による。①川面から見える堂の形が「駒が駆けているように見えた」ことにより「駒かけ」が「駒がた」に転化した(江戸名所記)、②寄進された絵馬を掛ける駒掛け堂の駒掛けから駒がたに転化した(燕石雑記)、③箱根から駒形神を勧請したお堂である(地名辞書)の三説がある。また、初代広重は吉原遊女の恋慕の句「君はいま駒形あたりほととぎず」に因み、「名所江戸百景」に駒形堂の空にホトトギスを配している。

 駒形堂、駒形橋への交通の最寄り駅は、浅草寺玄関である東武浅草駅から5分、地下鉄銀座線・浅草線浅草(雷門)駅から2~3分、駒形橋北詰交差点を一巡りしても、20~30分もあれば回れる。駒形公園:駒形堂境内には、わずかな植樹もあり、句碑・記念碑(由来記)などもいくつか保存されている。

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駒形公園に駒形堂はある

 地名としての駒形は、江戸期から明治初年まで駒形町が使われ(町方書上)、1868(明治元)年東京府、1872(明治5)年浅草駒形町となり(府志料)、1878(明治11)年浅草区に所属、1934(昭和9)年以来浅草駒形1・2丁目、1947(昭和22)年台東区に所属浅草駒形、1964(昭和39)年以降駒形1・2丁目となる。東駒形は町名として1947(昭和22)年本所区に、1966(昭和41)年台東区に所属し、東駒形1・2・3・4丁目としても使われ、またバス停や首都高速道インター、パーキングなどにも広く使われている。老舗「駒形どぜう」もある。

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地下鉄出口案内板にも駒・馬の文字

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案内地図にも駒の字が読める

 参考資料:『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店(1953年)

駒のつく神社を訪ねる(6)~駒繋神社 [日々散策]

北村健治

 世田谷区の駒のつく神社には、上馬の駒留八幡神社と、もう一つ下馬の駒繋神社という立派な社がある。源氏ゆかりの福の神・縁結びの神、世田谷下馬の鎮守・子の神。一心泣き相撲世田谷場所、人形(人型)を船上より大海原(現在は駿河湾)に流す「形代流し神事」などで知られる。

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一心泣き相撲世田谷場所広告

 ご祭神は、大国主命であり、平安時代後期、後冷泉天皇の天喜4(1056)年、源義家公が父頼義公と朝廷の命を受けて、奥州の安倍氏征伐(前九年の役)に向かう途中、このあたりを通りこの社(子の神)に武運を祈願したとの源氏ゆかりの神社である。これ以前に出雲大社から御分霊を勧請し守護神としてお祀りされたと考えられる。創建年代は不詳。
 その後、文治5(1189)年7月、源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を出立し、この地に至りかつて義家公が当社(子の神)に参拝したことを回想して、愛馬より下りて駒(馬)を境内の松(駒繋松:4代目を育てている)に繋ぎ、農家の姥に「子の明神」での祈願を勧められ、戦勝を祈願したと言われており、ところが頼朝公の芦毛馬が沢にはまり驚き暴れ死んだので供養した(芦毛塚)―馬から下りて沢を引いて渡る村―の故事によりこの一帯を「下馬引沢村」と、「子の神」が「駒繋神社」とも呼ばれるようになった。また、頼朝公は帰途にも戦勝の報告をして、芦毛塚では馬の供養もした。正式には、明治以降に駒繋神社と称せられるようになった。

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「駒繋の松」の碑(松の木がない)

 文化12(1815)年に記された「世田谷紀行」には、「こは、下馬牽澤村に有りて いと古き世の奥つ城(神霊の鎮まるところ)と見ゆ。堀をめぐらしし中に、丘を高うつきなしたるは、奈良の朝よりあなたのつくりざまになんありける。」とあり、神社の下を流れる蛇崩川が、堀をめぐらしたように見え、その中に突き出た神社の姿は、奈良の世より古い時代の趣があったという当時の様子も知ることができ、東京の中でも名社の一つであったことがわかる。蛇崩川は暗渠にされて素晴らしい遊歩道(蛇崩川緑地)になっている。
 昭和32(1957)年には、この神社創建を義家公故事のある天喜04(1056)年として、鎮座九百年式年大祭を、平成19(2007)年には鎮座九百五十年式年大祭を盛大に斎行された。
 芦毛塚には昭和44年8月24日、「芦毛塚の碑」が建設された。
 さて、この神社へは駒留八幡神社から、環状7号線駒留陸橋を潜って、駒留通り、その延長の通りへと歩き、向かって左裏通りが蛇崩川緑地となっている。
 その木陰を拾いながら歩くと約30分(約1.9㎞弱)ほどで東口の鳥居(神明鳥居)の前に出た。

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東口の大鳥居(神明鳥居)

 樹木に覆われた急な石段を上がるとかなり広い境内に出る。

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広い境内

なかなか豪壮な拝殿本殿にお参りする。
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豪壮な唐破風の拝殿の奥に本殿

稲荷神社ほか合祀社もなかなか立派である。

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合祀社(春日鳥居)

境内の南西口には大きな神明鳥居がある。東の鳥居と形が異なることも面白い(寄進者の好みによる)。
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南西口の大鳥居(神明鳥居)

 駒繋の名前も恐らくこの神社のみではなかろうか。地域では小学校・自治会・公園名などに使われている。(青森には麺処「駒繋」というのもあるとか・・・)。

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自治会名にもなっている

 厄除(厄祓)・結婚式・安産・宮参り・七五三詣ほか各種祈願などが案内されている。
 アクセスは、東急世田谷線三軒茶屋駅、東横線祐天寺駅いずれからも徒歩約15分。

駒のつく神社を訪ねる(5)~駒留八幡神社(世田谷百景の一つ) [日々散策]

北村健治

 東京23区内にも駒のつく地名はいくつもある。駒ヶ坂(中野)、駒塚橋(文京)、駒の橋(新宿)、駒場(目黒)、駒込(文京・豊島)、駒形(台東・墨田)、駒沢(世田谷)と多く、ことに駒込のつく地名は実に多い。どれも駒・馬との関わりのある由来を持つと思われる。
 中でも駒沢(こまざわ)は、1889(明治22)年以来の荏原郡駒沢村大字名として下馬引沢・上馬引沢が使われ、1925(大正14)年~1932(昭和07)年に駒沢町の大字名として下馬・上馬が使われた。1932(昭和07)年に世田谷区下馬町・上馬町と表記され、昭和40~43年の改正以後は世田谷区下馬1~6丁目、上馬1~5丁目、駒澤~5丁目との表記になった。
 その由来は頼朝伝説に始まる馬引沢の地名に始まり、江戸時代天保期には馬引沢村一村であったが、後に上馬引沢村・中馬引沢村・下馬引沢村となり、中馬引沢村は1879(明治12)年に上馬引沢村に合併したが、1889(明治22)年には駒沢村の大字中馬引沢となり、1932(昭和07)年以後は三軒茶屋となる。
 旧下馬引沢村は駒繋神社氏子地域として下馬、旧上馬引沢村は駒留神社氏子地域として上馬との駒沢町時代の大字名が使われ、それぞれ現代に至る。駒沢は旧練兵場、公園、オリンピック公園、総合運動場、競技場、小・中学校、大学、駅、通りなどの名前にも広く使われている。

 さて、駒留神社は旧上馬引沢村旧村社として、世田谷区上馬5丁目35番地に南向きに鎮座する。現在の氏子は上馬1~5丁目・三軒茶屋・駒沢1~3丁目に分布し、例祭日は10月15日(神事)、それ以後の週末に諸行事が行われている。サギソウの名前発祥地の伝説がある。
 現在の社は、クロマツの保存木やケヤキなど高木が何本か残されているが、周囲の住宅への配慮なのか、かなりの大枝が切り下されて、境内にはすっかり日差しが降り注いで明るい遊園地のように見える。歴史のある神社としての雰囲気が残念ながら壊されている。

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一の鳥居(木立がなく寂しい)

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二の鳥居(境内が殺風景)

 御祭神は天照大神・応神天皇であり、記録によれば鎌倉時代の1308(徳治03)年、当地の領主北条左近太郎入道成願が、八幡大神を勧請し創建された。成願は御神託により、奉斎する土地を選ぶ際、自らの乗った馬の手綱を緩めて歩かせ、馬が立ち留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。

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狛犬の奥に本殿

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立派な神楽殿もある

 また、世田谷城主吉良家との関わりによる厳島神社、三軒茶屋に鎮座していた天祖神社や、稲荷神社、女塚社、御岳社、三峰社、榛名社、菅原社などが広い境内にそれぞれ祀られている。

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由緒ある合祀社の一つ(厳島神社)

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合祀社(菅原・榛名・三峰・御嶽)

 神社名の駒留も他に例がなく珍しい。周辺では中学校・陸橋・通り・バス停・お店・お囃子などの名前に使われている。

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暗渠になった川に橋の名前だけ残る

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通りの名前にもなっている

 最寄駅は、東急世田谷線若林駅で、すぐ東側にある環状7号線に沿って南へ10数分も歩けば、立派な拝殿・本殿を中心として歴史を物語るような狛犬や神楽殿、各境内社の祠などが立ち並んでいる。


勝海舟神社 [日々散策]

田口計介

 5月28日、丹沢の大山を訪問、今年2回目。
山麓の阿夫利神社社務所内に勝海舟神社があるのを教わった。

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勝海舟神社

 一般に、勝海舟は幕末の江戸城無血開城の功績以後は歴史の表舞台から姿を消している。
 神社の隣の「文化集団 天狗講」の説明によると、海舟は日清戦争、台湾併合、朝鮮侵攻に反対している。当時の薩長政権に対しての勇敢な発言であった。

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解説板

 今日の安倍政権の戦争をもたらす憲法改憲、治安維持法に等しい共謀罪法に対し、地下か天井の海舟は如何に怒ることであろうか。

駒のつく神社を訪ねる(4)~幻になった駒形神社 [日々散策]

北村健治

 駒ヶ岳ファンクラブが2007(H19)年に発行した、改訂『全国の駒名の神社リスト』によると、東京都には、駒のつく神社あるいは高麗・狛・巨摩・漢・蒼前神・惣染神などに所縁のある神社は、駒形神社(昭島・八王子)、駒繋神社、駒留神社、虎狛神社(青梅市には虎柏神社があり、柏は誤記されたものとの解説もある)など8社が紹介されている。
 多摩地区では、すでに訪ねた八王子・昭島のほかに、調布・青梅・瑞穂にも紹介された神社があることがわかり、訪ねてみた。

 瑞穂町には、狭山丘陵の西端部分を囲むように武蔵野台地の緩やかな地形面が広がっている。そのかなり広い地区の一つに駒形富士山という地区があり、以前から駒に纏わる何かがあるのではないかと思っていた。またこの一帯から南西方の狭山丘陵の西端に目を向けると地平線に霊峰富士山を望むことが出来る。
 瑞穂町が1974(S49)年に発行した瑞穂町史を開くと、「駒形という地名について」「駒形明神の成立について」「駒形に於ける近世集落の形成」という項が設けられていて面白く、読んでみた。その概略を以下に記す。
 
 1644₋1947(正保年間)にできた官撰の武蔵国図には、この辺りは広く宮寺となっていたが、1645(正保02)年に地頭(1596-1615慶長年代に赴任)二代目大田正忠の時に、初めて栗原河内守重次が明神の神主を地頭から申し付けられ、その時の書状(誓文)には駒形村の氷川明神となっていて、すでに駒形村は成立していた。大田氏の氏神的性格を持って村人たちに維持されていた。

 1705(宝永02)年の検地帳には駒形、その北側を東へ流れるトシシラズカワ(不老川)の左岸に駒形山下・駒形山・駒形山北添の小字が記入された地図の駒形山の中央に鳥居の記号がある。ここにかつて駒形神社が南を向いて鎮座していたと考えられる。そして北・西側の旧二本木村、南側の旧高根村、東側の旧坊村に囲まれた駒形村が存在していた。

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旧駒形村の小字名など(赤点の辻間が250m)

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25000分の一地形図「青梅」より(赤点の辻間が250m)。方位のずれが少しあるが、道の位置は上図とよく合っている。

 1792(寛政04)年に駒形明神の神主栗原山城の書いたものに、神名は氷川大明神であるが社の辺りの地形が駒の形に似ているので駒形の宮と云い、所もこのゆえに駒形村と名付けた。とあり、駒形の名称は地形から生まれた言葉であると言える。
 これら新編武蔵風土記稿(1824-28、文政07-11)以前の記述は、栗原家文書による。

 時代は替わって明治初年には、この瑞穂町一帯は韮山県・入間県、1872(明治05)年から神奈川県、1893(明治26)年に東京府と転々とし、1958(昭和33)年には旧駒形村一帯は埼玉県旧元狭山村大字駒形富士山から瑞穂町に合併した。江戸時代から存在した各旧村々の鎮守社を駒形山の尾根続きで約1500m西方に1918(大正07)年創建された元狭山神社に合祀することとなり、駒形山にあった駒形神社は消滅した。

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祭礼中の元狭山神社の鳥居(正面奥に本殿)

 この元狭山神社の御祭神を表した額(昭和59年4月15日作成)には、駒形神を筆頭に15の神神が列記されている。

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元狭山神社の御祭神を列記した額

 さて、瑞穂町駒形山(旧駒形村)の散策は、雪の富士山が見える冬から、ミツバツツジやカタクリの咲く4月から5月ころまでが最適であり、JR八高線の箱根ケ崎駅から約2.5kmほどの範囲だから、半日くらいの行程で狭山丘陵の西端一帯や残堀川水源地(狭山ヶ池)などを楽しむことができる。

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南西側から見た、駒形山全景

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南東側から見た、駒形山

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駒形神社はこの道の正面当たりにあった

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木立の中にある栗原宮司の屋敷                        

ヒトリシズカ [日々散策]

                        髙田健三

 4月20日、群馬県桐生市の駒形山を登った折り、ヤブコギの最中に、もうすぐ林道
かなというところで、この花を見ました。

 お花に縁のない私は、あれ、この花は何という花か?と、気にかかって写真を1枚
撮影しました。
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 帰宅してもこの花を調べる資料も無いので、そのままになっていましたが、
今日、ブログを見まして、伊達さんの「御前山の春」の記録の中で、この花が
「ヒトリシズカ」だということを教えていただきました。

 これからの山行では、お花に気をつけて登ろうという気がわきました。
KFCブログありがとうございました。



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