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駒のつく神社を訪ねる(6)~駒繋神社 [日々散策]

北村健治

 世田谷区の駒のつく神社には、上馬の駒留八幡神社と、もう一つ下馬の駒繋神社という立派な社がある。源氏ゆかりの福の神・縁結びの神、世田谷下馬の鎮守・子の神。一心泣き相撲世田谷場所、人形(人型)を船上より大海原(現在は駿河湾)に流す「形代流し神事」などで知られる。

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一心泣き相撲世田谷場所広告

 ご祭神は、大国主命であり、平安時代後期、後冷泉天皇の天喜4(1056)年、源義家公が父頼義公と朝廷の命を受けて、奥州の安倍氏征伐(前九年の役)に向かう途中、このあたりを通りこの社(子の神)に武運を祈願したとの源氏ゆかりの神社である。これ以前に出雲大社から御分霊を勧請し守護神としてお祀りされたと考えられる。創建年代は不詳。
 その後、文治5(1189)年7月、源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を出立し、この地に至りかつて義家公が当社(子の神)に参拝したことを回想して、愛馬より下りて駒(馬)を境内の松(駒繋松:4代目を育てている)に繋ぎ、農家の姥に「子の明神」での祈願を勧められ、戦勝を祈願したと言われており、ところが頼朝公の芦毛馬が沢にはまり驚き暴れ死んだので供養した(芦毛塚)―馬から下りて沢を引いて渡る村―の故事によりこの一帯を「下馬引沢村」と、「子の神」が「駒繋神社」とも呼ばれるようになった。また、頼朝公は帰途にも戦勝の報告をして、芦毛塚では馬の供養もした。正式には、明治以降に駒繋神社と称せられるようになった。

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「駒繋の松」の碑(松の木がない)

 文化12(1815)年に記された「世田谷紀行」には、「こは、下馬牽澤村に有りて いと古き世の奥つ城(神霊の鎮まるところ)と見ゆ。堀をめぐらしし中に、丘を高うつきなしたるは、奈良の朝よりあなたのつくりざまになんありける。」とあり、神社の下を流れる蛇崩川が、堀をめぐらしたように見え、その中に突き出た神社の姿は、奈良の世より古い時代の趣があったという当時の様子も知ることができ、東京の中でも名社の一つであったことがわかる。蛇崩川は暗渠にされて素晴らしい遊歩道(蛇崩川緑地)になっている。
 昭和32(1957)年には、この神社創建を義家公故事のある天喜04(1056)年として、鎮座九百年式年大祭を、平成19(2007)年には鎮座九百五十年式年大祭を盛大に斎行された。
 芦毛塚には昭和44年8月24日、「芦毛塚の碑」が建設された。
 さて、この神社へは駒留八幡神社から、環状7号線駒留陸橋を潜って、駒留通り、その延長の通りへと歩き、向かって左裏通りが蛇崩川緑地となっている。
 その木陰を拾いながら歩くと約30分(約1.9㎞弱)ほどで東口の鳥居(神明鳥居)の前に出た。

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東口の大鳥居(神明鳥居)

 樹木に覆われた急な石段を上がるとかなり広い境内に出る。

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広い境内

なかなか豪壮な拝殿本殿にお参りする。
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豪壮な唐破風の拝殿の奥に本殿

稲荷神社ほか合祀社もなかなか立派である。

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合祀社(春日鳥居)

境内の南西口には大きな神明鳥居がある。東の鳥居と形が異なることも面白い(寄進者の好みによる)。
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南西口の大鳥居(神明鳥居)

 駒繋の名前も恐らくこの神社のみではなかろうか。地域では小学校・自治会・公園名などに使われている。(青森には麺処「駒繋」というのもあるとか・・・)。

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自治会名にもなっている

 厄除(厄祓)・結婚式・安産・宮参り・七五三詣ほか各種祈願などが案内されている。
 アクセスは、東急世田谷線三軒茶屋駅、東横線祐天寺駅いずれからも徒歩約15分。